仕事において質と量とは
仕事における質と量についての研究や個人的な意見が多くSNSのポストや出版物として世に出ている。
量は質を凌駕する
仕事量より、質が重要
ハードワークによって質が高まる
場合によっては
質よりスピードといった概念も出てきたりする。
質の高さそのものがポジティブな概念であることは、一般的には誰からも否定されないだろう。
量はどうだろうか、量の多さそのものは必ずしもポジティブな概念ではない。
おそらく量が必ずしもポジティブでないことによって質と量の関係の問題が頻繁に取り上げられるのだろう。
量をこなすことが質を高めるのか
マシュー・サイド著「才能の科学」にヒントとなる考えが記載されている。
「傑出性の実現における本質的な問題は、専門的な知識というのは、ある雨降りの午後に教室でササッと教えられるものでもないどころか、雨降りの午後に一〇〇〇回かけて教えられるものですらないということだ(クラインの調査対象となった消防士たちは、平均して二三年の経験を持っていた)。(中略)エキスパートが処理するヒント──スポーツだろうとなんであろうと──はあまりに細かく、しかもじつに複雑なかたちで相互につながっているので、それをそのとんでもない全体性の中でコード化するにはすさまじく時間がかかる。(後略)」
傑出するためには、まずチャンキングやコード化と呼ばれる一種のパターン化をして身につける必要があり時間がかかるということだ。
良い意思決定には、経験から得られたパターンの意味を解読し、大量の情報を圧縮せねばならない。これは教室では教えられない。生まれつきのものでもない。実際に生きて学ばなくてはならない。言い換えると、練習を通じてこそ実現できることなのだ。(中略)「エキスパートのやり方がわかれば、それを素人に直接教えられるという発想は魅力的ではありますが、実際には無理です。専門技能は長期的に発達していくプロセスであり、豊かな実戦経験とたくさんの練習の成果なのです。それをホイッと誰かにわたすことはできません」
そして、パターン化されたものはエキスパートから瞬時に伝えることができるものではなく、実践を含めたプロセスの上に形成される。
長時間の意味の誤解やミスリード
それでは、長時間働いたりトレーニングすれば結果につながるのかという問いの答えだが、仕事の量は必要条件だが十分条件ではない。
仕事をこなしていても──いくぶん、あるいはすっかり──うわの空になっていることがしばしばある。かたちだけやっているのだ。だから(多数の研究が示すように)多くの活動では、かけた時間の長さと腕前の関係がごく弱くなっている。深い集中をともなわなければ、ただの経験はすぐれた技量に変わらないのだ。
マシューサイドが言う目的性訓練でないと、長時間の意味がない。
目的性訓練とは、少しばかり力がおよばなくて実現しきれない目標を目指してはげむこと。現在の限界をこえる課題に取り組んで、くり返し達成に失敗することだ。傑出とは、快適な領域から踏み出し、努力の精神をもってトレーニングにはげみ、艱難辛苦の必然性を受け入れることにかかっている。実際、進歩は必然的な失敗の上に築かれる。これはプロのパフォーマンスに関するもっとも重要なパラドックスだ。
ビジネスにおいても仕事の量をこなすことやハードワークをすることは目的性訓練の状態がともなうことで必要十分になり、質も高くなると言うことである。
場合によっては、量にこだわっても質を高められないリスクがあることに気づかないことで問題が起きる。
筆者が考える仕事における量の考えに対して、労働者側が不信感を抱く主な要因は
企業の経営者や管理職が、目的性訓練にならない仕事量をこなすことやハードワークに対して量と質の関係を説いたり推奨することのミスリードにあると考える。
目的性訓練がともなうとなんらかの形で理解されている場合であれば、労働者側も仕事量を多くこなすことは本人のためになることでもあるので積極的に取り組むのではないだろうか。